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名古屋高等裁判所 昭和62年(う)173号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金四万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

本件控訴の趣意は、名古屋高等検察庁検察官山岡靖典提出にかかる岐阜区検察庁検察官竹内陸郎名義の控訴趣意書(但し、八丁目第三行目以下を除く)に記載されているとおりであるから、ここにこれを引用するが、本件控訴趣意第一点(法令適用の誤りの論旨)の要旨は、原審において取り調べられた関係各証拠によると、原判決がその理由中に説示するとおり、被告人が本件公訴事実記載の日時場所において普通乗用自動車を運転していた際に、前方注視を怠つた過失により、被害者に本件公訴事実記載のような傷害を負わせたこと並びにその約一一時間後に被害者が死亡するに至つたことが明らかであるとともに、右傷害と被害者の死亡との間には因果関係も認められるところ、業務上過失傷害と同致死は、いずれも刑法二一一条前段所定の一つの構成要件該当事実であつて、両者は二つの犯罪が法条競合により吸収関係に立つものではなく、また、傷害と死亡は、ともに一つの構成要件要素たる事実であつて、死亡が傷害を吸収するという性質のものではないから、業務上過失致死の成立が認められることを根拠に、直ちに本件公訴事実である業務上過失傷害を認めることができないとして、刑事訴訟法三三六条後段に則り無罪を言い渡した原判決には、刑法二一一条前段の解釈適用を誤つた違法があり、右違法が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのであり、本件控訴趣意第二点(訴訟手続の法令違反の論旨)の要旨は、裁判所は、当事者訴訟構造下における訴因の意義、機能に照らして、検察官が裁判所の訴因変更の勧告に応じないときも、あくまでも検察官の提起した訴因に拘束され、検察官提起の訴因につき証拠上有罪を認定できる場合には、当該訴因につき有罪の判決をすべきであつて、たとえ理由中であつても、訴因の範囲を越えた事実を認定し、これを理由として、無罪を言い渡すことは許されないと言うべきであるから、検察官が裁判所の勧告に従い訴因を変更しなかつたからといつて、「被告事件について犯罪の証明がない」との理由で無罪判決を言い渡した原判決には、刑事訴訟法二五六条、三一二条一項、二項等から認められる訴因制度の趣旨に反する訴訟手続の法令違反があり、右違反が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

所論に対する判断に先立ち、職権をもつて原判決書を調査して検討するに、原判決には、以下のとおり判決の理由にくいちがいがあり、原判決は破棄を免れない。

すなわち、原判決は、「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和六一年七月一日午後七時五五分ころ、普通乗用自動車を運転して、岐阜県山県郡高富町高富一三六一番地先路上を、時速約三五キロメートルで北進中、道路前方左右を注視して、その安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然進行した過失により、折から進路前方を東方から西方へ横断中のK(当時四六年)を自車右前方約五・二メートルの距離に発見し、左転把するとともに急制動の措置を講じたが及ばず、自車右前部を同人に衝突させて転倒させ、よつて同人に対し、加療約三か月間を要する左脛骨骨折、左腓骨骨折、左骨盤部骨折などの傷害を負わせたものである。」との公訴事実に対し、関係証拠によれば、「被告人は、普通乗用自動車を運転中、前方注視を怠つた過失により、公訴事実記載の日時、場所において自車をK(当時四六年)に衝突させ、よつて同人に対し左脛骨骨折、左腓骨骨折、左骨盤部骨折、小腸、小腸腸間膜、膀胱外壁及び肝の各破裂、左前頭部皮下出血等の傷害を負わせ、同人をして翌二日午前七時二分岐阜県山県郡高富町高富一一八七の三所在の岐北総合病院において、前記衝突による左下腿、左骨盤部打撲に起因した外傷性ショックにより死亡するに至らしめた事実が認められる。従つて、公訴事実記載の加療約三か月を要する傷害を認めることができないから、検察官に対して、業務上過失致死の訴因に変更するよう促したが、訴因の追加も変更もしない。以上の次第であるから、被告人に対しては、刑事訴訟法三六六条後段を適用して無罪の言渡しをすることとする。」として無罪判決を言い渡したが、これによると、原判決は、一方では、被告人が普通乗用自動車を運転していた際に、公訴事実に沿う日時場所において、公訴事実に符合する業務上の過失により、被害者に対し公訴事実(訴因)に沿う傷害を負わせたとの事実を認定説示しながら(但し、要加療期間の点を除く。)、他方では、右認定説示にかかる傷害に因つて被害者が死亡するに至つたとの公訴事実(訴因)を越える事実をも認定説示したうえで、検察官が訴因を業務上過失致死に変更しないとして、結局のところ、公訴事実(訴因)である業務上過失傷害にいわゆる傷害の証明がないことに帰着するので、刑事訴訟法三三六条後段に則り、無罪の言い渡しをする、というのである。

原判決は、右のとおり、一方では公訴事実(訴因)に沿う傷害の事実を認定説示しながら、結論的には右傷害の事実を認めることができないとするのであるが、右の如き結論に至るべき理由として原判決が説示するところは必ずしも判然としないものの、その趣旨は要するに、被告人の業務上の過失行為によつて被害者が傷害を負い、因つて被害者が死亡するに至つたことが証拠上明らかになつた場合には(すなわち、被告人の過失行為と被害者の死亡との間に因果関係の存することが証拠上肯認されるに至つた場合には)、右の傷害の点は最早構成要件的評価の対象とはなし得ず、従つて、検察官において訴因を業務上過失致死に変更すれば、被告人に業務上過失致死罪の刑責を問い得るが、訴因変更の措置を講ぜず、従前の業務上過失傷害の訴因を維持する限り、被告人に対し業務上過失傷害罪の刑責を問う余地はない、というにあるものと解される。

しかしながら、刑法二一一条前段がその構成要件を「業務上必要ナル注意ヲ怠リ因テ人ヲ死傷ニ致シタル者ハ」と定めるとともに、致死であるか致傷であるかによつて法定刑に差異を設けていないことなどにかんがみると、刑法二一一条前段は、その保護法益を人の生命・身体の安全として統一的に把えるとともに、その法益侵害の結果である人の死亡と傷害とを構成要件上同等の要素をなすものとしていることが明らかであるところ、人の死亡と傷害との間には法益侵害の程度に重大な差異があるとはいえ、必ずしも両者は常に論理必然的に相矛盾し排斥し合う関係にあるわけではないから、人がその負つた傷害に因つて死亡するに至つた場合であつても、傷害の点が常に定型的に死亡の事実に吸収され、ために構成要件的評価の対象たり得なくなるに至るものと解すべきいわれはないものというべきである。

そして、専権的に訴追権限を有する検察官が、審判の直接的対象である訴因を構成・設定するにあたつて、被告人の業務上の過失行為と被害者の死亡との間の因果関係の立証の難易や訴訟経済等の諸般の事情を総合的に考慮して、合理的裁量に基づき、現に生じた法益侵害のいわば部分的結果である傷害の事実のみを摘出して、これを構成要件要素として訴因を構成して訴追し、その限度において審判を求めることも、なんら法の禁ずるところではないし、審判を求められた裁判所としては、検察官が設定し提起した訴因に拘束され、その訴因についてのみ審判すべき権限と義務を有するにすぎないのであるから、その審理の過程において、取り調べた証拠によつて訴因の範囲を越える被害者が死亡した事実および被告人の過失行為と被害者の死亡との間に因果関係の存することが判明するに至つたとしても、裁判所の訴因変更命令ないし勧告にもかかわらず、検察官において訴因変更の措置を講ぜず、なお従前からの業務上過失傷害の訴因を維持する以上、裁判所は、右訴因の範囲内において審判すべきは当然であつて、右訴因として提起された業務上過失傷害の公訴事実が証拠上肯認し得るのであるならば、違法性ないし有責性を阻却すべき事由があれば格別、しからざる限り、右公訴事実(訴因)につき被告人にその刑責を問うべきは勿論である。

そうとすると、前叙の如き原判決の説示する理由によつては、本件公訴事実(訴因)である被害者の傷害が証明がないことに帰着すべきいわれはなんらないものというべきであるから、前叙のとおり、一方では本件公訴事実(訴因)に沿う傷害の事実を認定説示しながら(なお、要加療期間の点は、傷害の程度を示すものにすぎず、業務上過失傷害罪における構成要件要素をなすものでないことは勿論である。)、他方では「公訴事実記載の……傷害を認めることができない」と説示する原判決には、その理由にくいちがいがあるものと言うほかなく、従つて、原判決は、所論に対する判断をまつまでもなく、この点において破棄を免れない。

よつて、所論につき判断を加えるまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三七八条四号に則り、原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、当裁判所において更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和六一年七月一日午後七時五五分ころ、普通乗用自動車(岐五八ほ五一―四〇号)を運転して時速約三五キロメートルで、岐阜県山県郡高富町高富一三六一番地先付近の道路(幅員六・四メートル、片側一車線)を岐阜市方面から同県山県郡美山町方面に向けて北進していた際、自動車運転者としては、常に進路前方左右を注視して進路の安全を確認しつつ進行し、もつて、衝突等による事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、同所付近は歩行者横断禁止の交通規制がなされていて、普段は横断者等がなかつたことから、漫然危険はないものと軽信し、自車の前方を自車と同一方向に走行中の先行車両に気をとられて、進路右前方への注視を欠いたまま前記速度で進行した過失により、折から自車前方を右方(東)から左方(西)へ向けて、酔余、右道路を歩行横断中のK(当時四六年)を道路中央線付近に発見したときには、その間隔は既に約五・二メートルの至近距離に迫つており、急いでハンドルを左に切るとともに急制動の措置を講じたものの間に合わず、自車右前部を同人の腰部付近に衝突させて路上に転倒させ、よつて同人に対し、加療約三か月間を要するものと見込まれた左脛骨骨折、左腓骨骨折、左骨盤部骨折等の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金四万円に処し、刑法一八条により右の罰金を完納することができないときは、金二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官吉田誠吾 裁判官鈴木雄八郎 裁判官川原 誠)

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